3.始動
月姫。その存在意義とはいったい何であろうか。
人は噂する。彼女たちは月を信奉する巫女たちだと。ミスカル王国を裏で操るものた
ちだと。そして、彼女たちは言う。我らは、月を受け継ぎしものだと。
だが、それは公言されぬこと。奥殿にて密かにささやかれること。決して漏らしては
ならないこと。別に月の賜り物を独占しようというのではない。ただ、秘めるだけ。そ
の身の内に一心に月の力を蓄えて、いつか来るその日までずっと。そのための神那。そ
のための月姫。たとえ世界がどうなろうとも、ただ秘める。それこそが存在。
そう、民草の存在も、騎士や錬金術師の存在すらも、そしてセラピストのことすら眼
中にはなく、ただ、己の責を果たすのみ。
ただ、それだけの存在。いつか来るであろう時のために手段を蓄えるだけの存在。
その傲慢さこそが、月姫が秘めし神那の本質。
だが、月姫の存在意義は。いつか至りし時、その存在は。
こうも思う。ならば、月姫の存在とははたして必要不可欠なものなのであろうか。
「うわあ!」
レイチェルは思わず声をあげた。
視界の果てが霧で曇って見えないほどに広い空洞。
眼下には緑なす黒森があり、満々と水をたたえた湖があり、そして頭上には太陽にに
たものまでもがあった。
「辺境に存在する地下空洞の中でももっとも広大なもの、そして、もっとも完全な遺
跡です。大きさだけなら神那の本殿にも匹敵しますわ」
レイチェルの隣にいる女性が説明した。その名を、妃女奈という。その主張故に神那
を離反した女性。それゆえに他国に追われる女性である。
レイチェルはそれまでの経緯をここに来るまでの道中で聞いていた。
だが、肝心なこと−なぜ、神那を離反したか−については曖昧にしか語ろうとはしな
い。目的地に着けば、語ると。ただ、それのみ。
そして、そこがこの場所。辺境の地下に埋もれし大空洞。
「約束でしたわね……わたくしが、なぜ神那をでたのか、その理由を教えましょう」
レイチェルの微妙な沈黙を察したのか、妃女奈はぽつりぽつりと話し始めた。
月姫であることを捨てた、その理由を。
それは、妃女奈が騎神の管理者になった直後の出来事だった。
騎神の管理者になるということは、神那の奥殿に入る資格を持つと言うことでもある。
神那最上層部−母様やお婆様達−と直接面会する権利をも得るのだ。
当時、まだ血のつながった妹である姫華は嫁いでおらず、妃女奈が管理者になったの
を聞いて飛び跳ねて喜んでくれた。神那の騎神は外部に対しては決して知られることの
ない最秘奥。その管理者とはすなわち次世代の神那を担うと言うことに他ならない。
そして妃女奈も、それを誉れに思っていたのだ。
そのようなときに、それは起こった。
妃女奈が奥殿での仕事を終えて帰ろうとしていたときのことだ。ミスカルとフィーラ
との緩衝地帯のミスカル側で月姫が無法騎士に襲われた、という知らせが神那に入った。
相手の数は10人、中には騎神を使うもおり、ミスカルの国境警備隊がかなう相手では
なかった。このままにしていれば近隣の村が襲われることは確実である。妃女奈はすぐ
に、騎神の隠密な出動を具申した。即座に行動を起こせば、それだけ民草の被害も押さ
えられる。また、無法騎士ならば騎神の力を使うことに対しても抵抗は少ない。
だが、それはかなえられなかった。
妃女奈は母様に理由を問いただした。なぜ、騎神を出さないのかと。そして、返って
きた答えは予想だにしないものであった。
「神那の存在意義は世界がどうなろうとも月の力を彼の日にむかって蓄えること。騎
神を出そうなどと、しかもたかが民草のためにその力を放とうなどとは断じて許さない」
そして、これは神那全体の意志であると。
妃女奈には信じられなかった。世のために役に立つために力を蓄えるのが月姫という
存在ではなかったのか。来るかどうかもわからないことのために、そのような目的とも
いえぬ目的のために、無辜の民を見殺しにしていいのか。それでは月姫の存在意義とは
いったい何なのであろうか。それでは月姫などいなくても同じではないだろうか。
その日を境に、妃女奈の視点は変化した。物事を月姫の目ではなく、一般人の目から
見つめようとするようになった。他のものから異端と言われようとも、あくまで人間自
身としていきようと決心した。
物事を別な視点から見つめると、驚くほどその様相が違って見える。様々な例を挙げ
てそのような話を姫華によく語ったものだ。
あれから数年。その姫華ももうアーミテイツに嫁いでしまい、神那にはいない。
そして妃女奈は、ずっと温めていた構想を、実現に移した。
神那の月姫であることを、自ら捨てて。
「そこからさきは、あなたも知るとおりです。最秘奥である秘月機を持ち出した私は
神那に、ルーンに、アーミテイツに追われ、ようやくここにやってきました。
この場所は元は街でした。おそらく多くの人々が住んでいたのでしょう。私は古文書
でこの場所を知って以来、ずっと考えてきました」
妃女奈はレイチェルの瞳をまっすぐに見据えた。
「騎士も錬金術師も月姫もいらない。あくまで人が人たらんとする場所、<ティス>
の建設を」
*
一応、まがりなりにも勅命を受けたものとして、一致団結して事に当たるのがルーン
に仕えしもののするべき行動である。だが、この3人にはそのような気概はもとよりな
い。あくまでも己のなすべき事をなすのみ。また、それ故にこそ、ともに行動している
3人であった。
「それで、妃女奈はどこに向かいましたの?」
騎神確保を命じられている整った顔立ちのルーンの女騎士、フィベリナは傍らの二人
の錬金術師にたずねた。
「追跡子は途絶してるよ。おそらく発見されて処置されたか、それとも圏外にでられ
たか、はたまた魔術を遮断できる場所に逃げ込んだか。すくなくとも僕たちの探れる範
囲内にはいない、ということですよお姉さん」
妃女奈捕縛を命じられた、少年とも少女ともつかない体に厚手の白い服に同じ色のマ
ントを羽織った錬金術師、ジューン・ブライアは無機質な笑みを浮かべる。
「と、いうことは騎神の中にいる可能性もある、ということではないですか?」
もう一人の錬金術師ミラ・ハーシェリー−命令は妃女奈抹殺−が唇の両端をくっとつ
り上げて人形のような笑みを形づくった。
「そう、それとも近隣の遺跡に潜り込んだか」
口元に不気味な微笑みを浮かべて二人してフィベリナを見やる。
「無意味に探し回るのは好きではありませんし、第一、遭遇戦ではこちらの方が不利
ですわ。できることならば、万全の体制を敷いてから行動したいところですけれども」
「だけど、いまは見失ってしまった。お姉さん、どうする?」
「もう一度復活する見込みは、あまり期待しない方がいいですよ」
「探せないの?」フィベリナは短くたずねた。
ジューンは軽く肩をすくめた。「直接目視できるものを使わすか、それとも追跡子が
復活するまで待つか。お姉さん、どちらがお好みです?」
「その必要はないですよ」
フィベリナが答えようとするのを、ミラが遮った。
「手段はまだあります。おそらく、妃女奈が向かったのは辺境。ここまでは追跡子で
確認済みです。と、なればいくつか仕えそうな方法があります」
「なに?」
「騎神ですよ、辺境ならば最新式の機体をならすのにも手頃ですし、それに、大体の
場所がわかればあとの絞り込みは私でできます」
再び唇の両端をつり上げる。
「そう、私でできますよ。ふふふふふ……」
*
「本当にこの情報は確かなんだね?」
「はい、間違いないでございますよ」古文書を専門にしている店をフィーラの裏通り
に面した3等地に構えているオジオンは、目の前の客に愛想良く笑みを送った。
「もう一度聞くよ、この、情報は、確かなんだね?」その女騎士は、一言ずつ区切っ
てゆっくりと発音して見せた。
「ええ。何度もいうようですが、その遺跡は最近見つかったものですが、すぐにミス
カルに売られましてね。最近の月姫の動向はほとんどがその遺跡に関するものだってい
う噂ですよ」オジオンは何度も繰り返したことを辛抱強く繰り返した。
「ほんとーに、ここにいけば月姫がいるんだね!」
「はい。ここにいない月姫をお探しなら、この場所に行ってみればおそらくいる可能
性が高いのではないかと」
「そう、じゃあボクがこの地図を買うよ」
ガーディス・セブンスと名乗った騎士が懐の隠しに手を入れるのを見て、オジオンは
内心にんまりとほくそ笑んだ。この地図は呪術師クロウリーと名乗る男が悪魔から手に
入れたといって売りつけてきたものである。二束三文でも売りさばければいいところを、
この騎士は結構な料金で買ってくれた。
まったく、商売とはこれだからおもしろい。
ガーディス・セブンス、彼女はなおも不幸であった。
この後、彼女はこの地図がきっかけで、ファラレア全土を駆けめぐるはめになる騒動
に巻き込まれてゆく。その騒動にはこの地図の発見者であるクロウリーとそれを売りつ
けたオジオンも関わっているのだが。
けれどもそれは別の物語、いつかまた別の時に語ることにしよう。
*
「ティス?」
レイチェルはきょとんと小首を傾げた。
「そうです。古語で<希望>を意味する言葉。そして、わたくしがやらねばならない
こと」
レイチェルの顔から目を離し、眼下に広がる光景に視線を移す。
森の中からゆっくりと幾筋もの煙が立ち上り、そこに人がいることを示す。
よく見ると、木々の間にもぽつりぽつりと家らしきものが見える。
「あれ?人が住んでいるの、かな?」
「ええ」
妃女奈は慈しむように煙を見つめた。
「この場所には騎士はいません。錬金術師も、セラピストも。そして、わたくしたち
以外の月姫も」
「人間だけの、世界?」
「そうです。一握りの奇形に支配されているのではない、人間自身が育てる世界」
「でも、それじゃ……」
単なる自己閉塞ではないか、ということばをレイチェルは飲み込んだ。
そんなレイチェルの様子に気づいたのか、妃女奈はふっと微笑んだ。
「彼らには蒸気機関の技術を学んでもらっています。それと、月に頼ることのない生
活の手段を。閉塞が目的ではなく、開放の起点とするのが目的なのです。いつの日か、
ここから世界が変容していくことを願って、わたくしはこの場所を護ります。人間のた
めのささやかなる聖域として」
「姉様……?」
「レイチェル、すぐにここを立ち去りなさい」虚空に耳を澄ましたかと思うと、妃女
奈は急に険しい顔になった。
「え?」
「ここはもうすぐ戦場になります。おそらくこの中にいれば安全でしょうが、万が一
ということもあります。ここを立ち去ってフィーラに戻るのです」
「戦場に。なんでなの?」
「騎神が来ます」妃女奈は短くいった。「おそらく私を追いかけてきたのでしょう。
友好的ではない騎神がここを探っています。説得できればいいのですが、おそらくそれ
は望めないでしょう」
「でも……」
妃女奈はレイチェルの肩に優しく手をかけた。
「あなたを助け、ここまで来させてしまったのは、誰かにわたくしのしたことを知っ
ていてもらいたいと思ったから。それは、わたくしの弱さなのでしょう。いくらその主
義に従えなくても、やはり神那は故郷。姉妹を危険にさらすわけにはいきません」優し
く語るその瞳は、レイチェルの背後に広がる世界に向けられている。
「これは、わたくしがはじめたことです。わたくしが責任を持って護ります」
「そんなことない!」レイチェルは叫んだ。
「そんなことないよ、姉様。確かにボクはここまできたけど、それは姉様のしようと
したことを知りたかったから。それはボク自身が望んだことだから。ボクが選んだこと
だもの。ボクはやりたいようにやるよ」レイチェルはまっすぐに妃女奈の瞳を見据えた。
「姉様の成そうとしていることはわかった。でも、それは姉様一人でできる事じゃない。
例え姉様の考えにボクみたいな月姫が入っていなくても、姉様自身がその行動を続ける
限り、ボクは姉様と一緒に見守ってゆくよ」
「レイチェル……なにもあなたまでもが」
「それに、姉様にも休息は必要だもの。姉様が疲れて休んでいる間、一人でゆっくり
と物想うとき、ボクが姉様の代わりにこの世界を見守っているよ」
「でも、これはわたくし自身の……」
レイチェルは妃女奈の言葉を遮った。「それはないよ、姉様。なにもかも一人で背負
い込もうとしないで。まだ姉様のいいたいことを理解したとはいえないけれど、とりあ
えず今は、ボクは姉様についていくと決めたんだから。決して神那が嫌いになったわけ
じゃないけれど、今は姉様についてゆく。昔、姉様の瞳を見たとき、わけもなく悲しか
った。姉様がそんなに一人でため込むから、ボクまで悲しくなってきちゃったんだ。神
那に戻った美禮には悪いけど、ボクは姉様のそばにいるよ。姉様のその負担を少しでも
分け合うために」そういってレイチェルはにこりといたずらっぽく微笑んだ。「それに、
姉様だって笑っていた方がいいでしょ?姉様って月姫の中でもとびきりの美人なんだも
の。悲しそうな瞳で微笑まれるより、呵々大笑する姉様の方がボクはきっと似合うと思
うな。」
「……レイチェル」
涙を浮かべる妃女奈を、レイチェルはそっと抱きしめた。
*
「ここ、ですわね」フィベリナは、地図の1点を指し示した。その地図にはなにも、
書かれていない。いや、所々に地名らしきものもあるが、ほとんどが空白なのだ。この
地は辺境。帝国の支配もこの地までは及ばない。その中の1点、といっても目印になる
ものがないために結構な地域になるが……。様々な感知装置を搭載した騎神で調べた結
果、おおよその地域が推定できた。足跡のみならず臭跡や魔力の残り香まで調べたその
調査は膨大な時間を費やした。だが、すくなくともそのおかげで調査地域は大幅に狭ま
った。
「で、おねえさん。どうするの?」ジューンが騎神の駆動系から顔を上げてたずねた。
その顔はすすで薄汚れている。
「追跡子は?」ジューンが顔を横に振るのを見て、フィベリナは考え込んだ。「そう、
ならばいままでどうり地道に探すしかないわね」フィベリナはふとミラに向き直った。
ミラは一人離れてどこからともなくやってきた黒い犬をじっと見つめている。「ミラ、
野良犬はほおっておいてもいいでしょう。あなたは何かいい知恵はありませんの?」
「これは、野良犬ではありませんよ、フィベリナ」ミラは微かに口元を歪めた。「大
体の地域さえわかればあとは私でできると言ったはずですが」いとおしげに黒い犬をな
でる「これはシャーフ、つまり使い魔です。私に同調して私のみの命令を受け付け、そ
して、私と五感を共有する、ね」
「使い魔?」フィベリナはいぶかしげに眉をひそめた。「聞いたことがありませんわ
ね」
「シャーフ、すなわち使い魔とは胎内時より特殊な魔術を使って育成されたきわめて
特殊な動物。自分の意志は持つがそれよりも優先されるのが主人の命令。そして意志。
ただ一人の主人と同調することを目的に制作されたその肉体は主人と感応して主人の考
えるがままに操られ、そしてその感覚のすべてを主人へと送る。考え方によってはすで
に生物とはいえないかもしれない。その膨大な手間と感覚逆流による精神事故の危険性
により錬金術師の中でも極々特殊な一派が使役するにとどまるとはきいてたけど……」
ジューンの口調にもさすがに畏怖が混じっている。
「そう、この<バンシー>はハーシェリーに伝わる秘奥を駆使して私のために育てら
れたもの。ここまでくると騎神を動かすのは見つかる危険性からしてあまり進められま
せんし、かといって人の身では探すのには時間がかかりすぎるわけですよ」
「それでこれを」とフィベリナは黒犬を見据え「使って探索しようと言うわけね」
ミラは唇の両端をわずかに動かした。
「すくなくともあてもなく探索するよりはよほど効率的かと、ふふふ」帽子を目深に
かぶり直す。「通常ならば術者の身の安全を確保する必要があるのですが、このばあい
二人もいれば安全は保障されましょうし」
「ふぅん?」フィベリナはいまいち気乗りがしない様子でうなずいた。
「でもフィベリナお姉さん、こちらはその間にルフト・シュピーゲルングの整備もで
きるし、それでいいんじゃないかな?」
「なら、お願いするわ。ミラ・ハーシェリー」
「まかせてください、ふふふふふ」
ミラは地を駆けていた。現在ミラの肉体はフィベリナ達に見守られて木陰で眠ってい
る。ミラが駆るのは自らと五感を共有する使い魔、黒犬のバンシー。
フィベリナ達には妃女奈を捜すと言ってあるが、ミラの目的はあくまで抹殺。慎重に
事は運ぶがいざとなれば全力を持って妃女奈を始末する。そのための捜索である。徒党
を組んでいるのは単にそれが便利だからに他ならない。
やがて、行く手に黒いシミのようなものが見えてきた。近づくにつれて石を組み合わ
せた巨石群とわかるようになる。だが、ミラの目的はそこにはなかった。
ミラの頭に古文書の一節が浮かぶ。かつてありし文明。その遺跡が地上にではなく地
下にこそあるという。その鍵となる入り口にそれは酷似していた。
「もし、そうだとすれば……」ミラは期待に唇をまくりあげた。「騎神のみならず、
おもしろいものも発見できるかもしれませんね」
場合によってはフィベリナ達を出し抜くために秘蔵の騎神を出す必要になるかもしれ
ない。そんなことを考えながら、黒い縁石を中心に、においを丹念に嗅いでゆく。
しばらくの後、バンシーの足がある一点でぴたりと止まった。
「見つけました」死んだかのようにじっとしていたミラがぽつりと呟いた。
「体臭と魔力の残り香を確認しました。間違いなく妃女奈ですね、ふふ」
「で?」フィベリナが鋭い目つきでミラを見据える。「場所はどこですの」
「現在使い魔を張り付かせていますからすぐにでも案内できますよ」
「おねえさーん」ジューンが騎神から半分身を乗り出している「こっちも用意はでき
たよー!」
「ならば、ゆきましょう!妃女奈の元へと」
*
かくして、世界は変革の時を刻み始めた。
けれどもそれは別の物語。いつかまた別の時に語ることにしよう。
星詠亭奇談という、物語を。